以前はオネエキャラと辛口なコメントがうけテレビで見ない日はないほど引っ張りだこだった「おすぎとピーコ」さん。
しかし現在メディアで見ることがなくなっていましたが、つい最近ピーコさんが行方不明になったと報道され心配された方も多いと思います。
そんなお2人はどのような経歴を過ごしてきたのでしょうか?
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おすぎとピーコのプロフィール
まずはお2人のプロフィールを見ていきます。
おすぎのプロフィール
- 本名:杉浦 孝昭(すぎうら たかあき)
- 生年月日:1945年1月18日
- 年齢:78歳
- 出身地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区
- 血液型:A型
- 職業:タレント・映画評論家
芸名の「おすぎ」は本名の杉浦からとったのだそうです。
おすぎさんはピーコさんの一卵性双生児の弟で、兄弟は他に13歳年上の姉と9歳年上の姉が2人います。
オネエキャラとして1975年にテレビ・ラジオでデビューして以来、タレントと映画評論家として活躍されています。
そんなおすぎさんは好き嫌いがはっきりしていて芸能界でも対立してしまうことがよくあるんです。
その一例がおすぎさんが口にする「どうせ私たちはオカマだから」という発言に対し、同性愛に対する偏見に対して闘ってきた美輪明宏さんから厳しく批判され現在は絶縁されているんです。
思ったことをズバズバと言うキャラが受け入れられていましたが、その一方で反感を買ってしまうこともしばしばあるんですね。
そんなおすぎさんは現在芸能活動を休業されています。
ピーコのプロフィール
- 本名:杉浦 克昭(すぎうら かつあき)
- 生年月日:1945年1月18日
- 年齢:78歳
- 出身地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区
- 血液型:A型
- 職業:タレント・ファッション評論家・シャンソン歌手
おもにタレントやファッション評論家として活動しているピーコさんですが、活動自体は多くはありませんがシャンソン歌手としてもCDを出したりコンサートを行ったりされています。
ファッション評論家として有名ですが、歌手としてもデビューされているとは意外ですよね?
いろんな才能を持っておられる方だからこそ、芸能界でも活躍されてこれたのではないでしょうか?
おすぎさんよりも落ち着いた雰囲気やしゃべり方をされているので、一卵性双生児とはいえやはりお兄ちゃんという印象を持たれる方が多いと思います。
現在はおすぎさん同様芸能活動を休止されています。
おすぎとピーコの経歴
双子のオネエキャラで「おすぎとピーコ」として一世を風靡したお2人ですが、現在はメディアで見かけることはなくなりました。
そんなおすぎさんとピーコさんはいったいどのような経歴をお持ちなのか見ていきます。
おすぎの学歴
おすぎの出身小学校
おすぎさんの出身小学校は神奈川県横浜市立宮谷小学校になります。
横浜市の西区では最大規模の小学校になります。
おすぎさんは小学生の頃から現在のようなしゃべり方だったようです。
またクラス委員をずっとやられていて、小学生の頃から目立つような立ち位置にいました。
周りから注目され目立つ職業の芸能界に入ってもうまくやってこれたのには、小学生の頃から周りから注目されることに慣れていたからという事も大きかったのかもしれませんね。
ちなみにおすぎさんが卒業された神奈川県横浜市立宮谷小学校の卒業生には、現在ももいろくろーばーZで活躍されている高城れにさんがいらっしゃるんです!
おすぎの出身中学校
おすぎさんの出身中学校は神奈川県横浜市立岩崎中学校です。
中学生になると女子生徒の憧れの的だった男子生徒に初恋をします。
この頃から同性愛を感じていたんですね。
また中学時代から程ヶ谷カントリー俱楽部でキャディーのアルバイトをされています。
神奈川県横浜市立岩崎中学校の卒業生には、モデルでタレントの剛力彩芽さん、現在はJT会長の涌井洋治さん、フリーアナウンサーの堀潤さんなどがいらっしゃいます。
おすぎの出身高校
おすぎさんの出身高校は神奈川県横浜市立桜丘高校です。
偏差値は61と神奈川県内の平均偏差値が54なので、高めの高校に入学されています。
高校時代には生徒会の副会長に任命されています。
小学生時代でもそうでしたが高校でも副会長に任命されるほどなので、若い頃から目立つような存在だったことは間違いないようです。
確かにテレビで見ていたおすぎさんはとっても目立っていましたよね?
それがましてや高校生なら余計目立ってしまうのも理解できます。
また副会長に任命されるほどなので、かなり優等生だったことが推測できます。
またこの頃父親の病気等いろいろな事情が重なり、高校2年の3学期になると進学クラスから就職クラスに変わったそうです。
ちなみに神奈川県横浜市立桜丘高校の卒業生には、プロゴルファーの荒木光雄さんや、芸人でタレントの石塚英彦さん、元プロ野球選手の阿波野秀幸さん、アナウンサーの安東弘樹さんらがいらっしゃいます。
おすぎさんの高校卒業後の経歴
おすぎさんは高校卒業後、阿佐ヶ谷美術学園デザイン専門部に入学されます。
その後デザイナーを経て「歌舞伎座テレビ室」制作部に勤務します。
映画評論家としては1976年に日本放送の「オールナイトニッポン」でデビューされているんです。
その後1975年に「久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO」にピーコさんと共に出演したことが評判になり、「おすぎとピーコ」のコンビ名でタレントとして芸能活動を始められます。
ピーコさんが眼球摘出手術を受けたころは「おすぎとピーコ」としての仕事が減っていました。
ピーコさんが手術を受けられたことで仕事ができなくなった時期に、おすぎさんはその穴を埋めるため、福岡や札幌などの地方へ通いの仕事をされてピーコさんのぶんも頑張っていたようです。
そんな折当時の人気番組「SMAP×SMAP」内で中居正広さんと関根勤さんがヒーコとおすきという物真似をしたことで、「おすぎとピーコ」は再ブレイクを果たし、そこから単独の仕事も増えていく事になるんです。
当時全国民に絶大な人気を誇っていたSMAPがものまねをしたとなれば、再ブレイクするのは当然の結果と言えますよね?
その後も「森田一義アワー 笑っていいとも!」のレギュラーを務められてるなど、テレビでの仕事が増えていきます。
2010年には福岡県へ転居され、福岡のレギュラー番組に出演しながら、東京での仕事もこなされています。
そして2021年夏頃から認知症の兆しが見られ、出演していた番組に迷惑をかけてはいけないと判断し、レギュラー番組を降板されます。
周りに迷惑をかけないようにと配慮される姿は、テレビに出だしたときからは考えられないような行動だと思うのですが、何か心境の変化があったのでしょうか?
確かにこれだけ芸能界に携わってくるといろいろな経験をされたことでしょうから、価値観が変わることもあることが予想できますよね?
そして2022年12月12日に自身のYouTubeチャンネルに「最後の投稿です」「いままでありがとうございました。」という文言が含まれたタイトルで、おすぎさんがスタッフと談笑する動画がアップされました。
この事からもこの動画が芸能界での最後の活動だと考えられます。
ピーコの学歴
ピーコさんの出身小学校
ピーコさんの出身小学校はおすぎさんと同じ神奈川県横浜市立宮谷小学校になります。
ピーコさんもおすぎさん同様クラス委員をやっていました。
やはり一卵性双生児という事もあり、ピーコさんも目立つことに慣れていたのではないでしょうか?
ピーコさんの出身中学校
ピーコさんの出身中学校もおすぎさんと同じ神奈川県横浜市立岩崎中学校になります。
ピーコさんの出身高校
ピーコさんの出身中学校もおすぎさんと同じ神奈川県横浜市立桜丘高校になります。
この頃には大学進学を考えていたようですが、父親の病気に手術費用がかかるため大学進学を断念し、就職クラスに変わり卒業後就職することになります。
ピーコさんにとって大学進学をあきらめることはとてもつらい事だったのではないでしょうか?
ピーコさんの高校卒業後の経歴
高校卒業後は横浜トヨペットの会社に就職され、仕事では思い荷物を担いで下す作業を続けていると、入社して6ヶ月やっているうち体を壊してしまいます。
またにもともと好きではなかった車の仕事だったため、1963年にサンヨーレインコートという会社に転職されます。
その会社で4年間営業を担当していましたが、洋服の勉強をするため文化服装学院に入学し2年間デザインや縫製などの洋服制作を学びます。
一度就職して再度学校に入学して学び直すというのは、よほど好きじゃないとできない事ですよね。
それだけ洋服が好きだったという事なんですね。
卒業後はテレビ制作会社に勤務していたおすぎさんの紹介で芸能人の服やステージ衣装を制作するようになり、1975年にはおすぎさんと一緒に出演したラジオ番組が評判になります。
そしてこの年からよく知られている「おすぎとピーコ」のコンビ名でタレントとして芸能活動を始め、当時では珍しい持ち前のキャラクターとトークがうけ、テレビやラジオで見ない日はないというくらい活躍されるんです。
確かに現在でこそ同性愛者の方はたくさんいらっしゃいますが、当時の芸能界では「おすぎとピーコ」のような方はいなかったため、その業界の先駆者だったのではないでしょうか?
悪性がんになり目の摘出手術を受ける
ピーコさんは1989年の44歳の時に左目にメラノーマ(悪性黒色腫)と呼ばれるがんを患い、眼球の摘出手術を受けられています。
原稿を書こうとすると、升目の横の線が見えない。左目で物を見ると、右目の半分の大きさ。専門医に診てもらったら『1・4センチのがんで眼球を取らないと命にかかわる』と言われ、摘出を決心したの
引用元:西日本新聞me
と摘出手術を決心した時の事を語られています。
手術は無事成功しアクリル樹脂製の義眼を入れる事になります。
当時の義眼は保険が効かず1つ30万円もして、術後1年間は義眼を作り替えなければならずとても大変な思いをされるんです。
確かにこんな大変な経験をすると病んでしまってもおかしくないように思いますが、ピーコさんはそうはならなかったようで
そしたら映画評論家の淀川長治さん(故人)が『おしゃれ目の会』を作り、芸能界の友達に1人1万円で募ってくれて、300万円も集まった
引用元:西日本新聞me
黒柳徹子さんは『義眼に300人の名前を入れましょう』とか、永六輔さん(故人)は『せっかくだから日の丸みたいにしよう』とか冗談を言うから、深刻にならずに済んだの
引用元:西日本新聞me
手術後半年ぐらいは、(一卵性双生児の弟の)おすぎがほとんど仕事を代わってくれた。あの人はもともと優しいから。家族も友達も、いつもそこに居てくれたのが大きかった
引用元:西日本新聞me
この様に周りの方々にかなり助けられた事を語っています。
もし自分が病気になった時に周りからの支えがあるという事は、かなり大きなものだという事は想像できますよね?
ピーコさんにとっても周りからの支えが、大変な時を乗り越える原動力になっていたことは間違いありません。
この事がきっかけで自分自身の価値観が変化したそうで、
私はそれまで自分一人の力で生きていると思っていたの。人の悪口をよく言う結構、嫌なやつだった。でも多くの人に支えられていたんだと病気になって初めて気付いたの
引用元:西日本新聞me
病気を経験することで価値観が変わったという話をよく耳にしますが、ピーコさんも病気を経て自分の価値観が変わったようです。
確かにテレビで見ていたピーコさんのしゃべり方はとても穏やかで、優しい印象を持たれた方も多いのではないでしょうか?
その後2021年夏ごろからおすぎさんに認知症の兆しが見られたころから同居を始め、2021年12月にバラエティー番組に出演したのを最後に芸能活動を行っていないんです。
現在は高齢者施設に入居されています。
まとめ
この記事では
- おすぎとピーコのプロフィール
- おすぎとピーコの経歴
について調査しました!
テレビでは見ない日がないほど一世を風靡した「おすぎとピーコ」さん。
今後はテレビで見ることはありませんが、健康に過ごして欲しいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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